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思いつくことを思いついたときに。心のかざぐるまをまわそう。


by ex_kazaguruma
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カテゴリ:ミリタリー( 13 )

自分用のゲーム攻略備忘録です。
コメントも歓迎。

■1944/ 6/13 ヴィレル・ボカージュ

 自車はまっすぐ進み、ボカージュを抜けて国道175号線へ。
 国道に乗ったらすぐに左旋回して、国道上に3輌展開するクロちゃんを距離800で撃破。この時、なぜか真ん中のクロちゃんの姿が見えないことが多いので、発砲煙を頼りに位置を特定する(真ん中のは距離が若干遠い)。

 180度反転して213高地方面へ進撃し、高地の手前に右側から小路が接続するT字路の前(右側の街路樹で2本目の手前まで)まで進む。このギリギリの距離から、213高地に展開するクロちゃん×2と蛍×1を撃破する。
なお、蛍に発見されるとアウトなので位置決めは慎重を期する。

 3輌始末したら180度旋回して、M3ハーフトラックとロイドキャリアを榴弾で撃破。
 叩く順番は真ん中のM3→ロイドキャリア→先頭のM3が良い。
 先頭M3は131号車が後詰め。その他はそれぞれクロちゃん×1が後詰め。
 このとき徹甲弾でもOKだが、外れると命中率に悪影響するため使わない。撃破した車両の近くへ行って、左右に展開する敵歩兵を始末する。ちなみにこの残党がいると、擲弾兵の進行速度に悪影響が出るので必ず始末する。

 そのまま国道を進んで、ヴィレル・ボカージュの街中へ入る。少し曲がって真西に進み、右側に開いたT字路(2番目の交差点)の手前で、街の北側と西側から現れるクロちゃん×6を始末する。
 西側から現れるクロちゃんの内、(恐らく)最初に現れるクロちゃんの後詰めが、街の最も南側から現れるクロちゃん×1となっている。

 この付近で始末できるクロちゃんは全部で10輌(街の北から3輌、西から3輌、南から3輌、一本南側の通りから透けて見える西側の1輌)いるが、この6輌のクロちゃんは出現パターンにバラつきがあるので、他のクロちゃんの出現状況に合わせて撃破順を考える。
 なお、この一本南側の通りから透けて見える西側の1輌の撃破が、街の西外れに陣取る蛍の出現トリガである。この蛍は街の南西のはずれから発生する。
 また、南から現れるクロちゃん×2はタイマートリガがかけられていて、発生してから一定時間後に前進を開始する模様。

 10輌のクロちゃんを撃破したら、最初にクロちゃんを相手したT字路へ向かい、街の北外れの建物から西側にいる初期配置の蛍を叩く。こちらからは見える(撃てる)が西の蛍から発見されないギリギリの位置がある。
 街の南東から回りこむこのやり方だと、この蛍が残ってしまうので、必ずここで始末しておく。
 できればこの位置から蛍×2とクロちゃん×1を目くら射撃で始末しておく。

 街中での戦闘はここまで。自車は街の南東側に移動し、ボカージュ越しに蛍×2を始末する。
 蛍さえ始末すればやられる心配はほぼなくなるので、後は残党のクロちゃんを始末する。

 後は擲弾兵がヴィレル・ボカージュの街中心部まで進めば終了。
 7分台、命中率100%で28000点台が出れば良好なスコアだ。
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by ex_kazaguruma | 2011-05-07 11:52 | ミリタリー | Comments(4)

III号戦車

 1941年当時、ドイツ機甲師団の中核をなす戦車は、主にIII号戦車とIV号戦車であった。
 特にIII号戦車は世界初の5人乗車する本格戦車で、機動性に優れており、電撃戦の主役を担っていた。
 また、IV号戦車は後方火力支援用として、より強力な火力(主に歩兵拠点破壊用)を備えていた。
 バルバロッサ作戦が発動された後の1941年10月、ロシアへ快進撃を続けるドイツ機甲師団は、モスクワへの進撃途中で新たな敵と合間見えることになる。
 ドイツ機甲師団の行く手を阻む怪物はT34と呼ばれた。
 これを撃破せんとするIII号戦車であったが、彼我の性能差は埋め難いものであった。
 III号戦車の50mm戦車砲では、この怪物を正面から仕留めることは非常に困難で、200m程度の至近距離から何発撃ち込んでも、砲弾は相手の装甲板に突き刺さるか、弾き飛ばされるかのどちらかであったという。
 一方、T34から発射された76.2mm砲弾は、ひとたび命中すれば、1000mの距離でも確実にIII号戦車は破壊された。
 これにより、ドイツ戦車兵の士気は一気に下がることになる。

━━━━━◆━━━━━◆━━━━━◆━━━━━

「11時にT34! 距離1200!」
「122号車は俺と一緒に左から、123号車と124号車は右から回り込め!」
小隊長である121号車の戦車長が無線で怒鳴る。
 操縦手はジグザグに走りながら、敵の射線をかわしている。

「くそ!イワン(ソ連兵の蔑称)の野郎、突っ込んできやがるぜ。」
「もっと距離を詰めろ。砲手!照準から目を離すなよ!」
「ヤー(了解)! いつでも撃てます!」
「距離500! フォイヤッ!フライ!(撃て!)」
 砲手と装填手はすばらしい連携で、矢継ぎ早に撃ちまくる。
 だが、火花を散らしながら当たった砲弾は、相手の車体に突き刺さる。

「シャッツ(くそッ)!まだだめか!」
「よし、さらに回り込め! すれ違いざまに撃破する!」
 案の定、T34は覗き窓を閉じたまま走行している。

「フォイヤッ!フライ!(撃て!)」
 次の瞬間、III号戦車の50mm戦車砲弾は、T34の側面を貫通した。
 続いてもう一発! ガクンと止まったT34は完全に沈黙した。

━━━━━◆━━━━━◆━━━━━◆━━━━━

 このように、ドイツ軍が付入る「隙」は、ソ連戦車兵の練度の低さであった。
 当時のソ連で、戦車兵として投入されたのは、自動車も運転したことのないものが多かったのだ。
 ソ連侵攻初期は戦車兵としてのスキルの違いで、かろうじて兵器バランスを保っていたのである。
 しかし、1942年も後半に入ると、ソ連兵の練度も上がってくるため、ドイツ機甲師団には、さらに強力な戦車が必要となってくるのだ。
(写真はIII号戦車J型。主力戦車を退いた後も、その秀逸な車台は様々な砲車のベースとして使われた)
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by ex_kazaguruma | 2003-11-07 10:00 | ミリタリー | Comments(0)
 連合軍のノルマンディ上陸からほどない、1944年6月13日早朝。
 フランスの片田舎、ヴィレル・ボカージュ(ボカージュ村)の付近には、ドイツ軍の守る要衝、カーン市側面への迂回突破を図ろうとするイギリス第7戦車師団所属の総勢60余両の第22戦車旅団があった。
 彼らは、ドイツ軍からのさしたる抵抗もないままヴィレル・ボカージュ入りを果たしたため、その戦果に気をよくしていたのだろう、機械化部隊は道路上に車両を止め、一休みしている。
 ヴィレル・ボカージュからカーンへは213高地を通って一本道。50キロに満たない距離である。
 旅団はこのまま街道を北上してカーン市へ突入し、ドイツ軍への側面攻撃を行うはずであった。

 一方その頃、SS第101重戦車大隊の中隊長、ミヒャエル・ヴィットマンSS中尉(のち大尉)は、自分の中隊(ティーガー4両とⅣ号戦車1両)を引き連れて、213高地付近を偵察中であった。
 彼は中隊をその場にとどめ、単独でヴィレル・ボカージュに自車である231号車を進めた。
 と、そのときである。
 彼は偶然にも、街道にたむろしている英軍の戦車群を見つけてしまったのだ。
 前日までの戦闘で、彼の中隊は多くの戦車を失っている。もはや1両の戦車を失うことも許されない状況に加えて、60両対1両!! けんかになるか!?
 逃げるか、交戦するか。彼は迷った。
 軽率な行動は決して許されない「究極の選択」を迫られた彼だが、このままにしておけばドイツ軍の戦線は背後から突破され、要衝カーンの防衛は非常に危うくなる。
 …彼は“決断”した!
 その時、砲手バルタザール・ヴォルはつぶやくように言った。
 「敵のやつら、もう勝ったつもりでいるようですな…。」
 ヴィットマンは自らの“決断”を彼に伝えるかのように、静かに言ったという。
 「そのようだな。では“教育”してやるとするか…。」

 「ヴォル!車列の先頭と最後尾の車両から血祭りにしてやれ! フォイヤー、フライ(撃て)!!」
 朝のしじまを切り裂いて、ついに彼のティーガーは咆哮を上げた!
 88mm砲の砲弾はうなりを上げ、敵戦車を餌食にする。
 敵は街道上に並んで停車していたため、先頭と最後尾の戦車が立ち往生しては、逃げる場所がない。
 不意打ちを食らった敵戦車群は、街道上を右往左往する。
 敵は至近距離から狙って撃つものの、ティーガーの装甲板を貫くことなどできようはずはなかった。
 逆にティーガーの牙の前に、次々と爆発炎上する英軍戦車。
 ものの2、3分で、街道上は地獄と化した。
 彼の231号車は、この戦闘で何と25両を撃破したのだ。

 213高地付近で警戒にあたっていた敵戦車も、後から来た彼の中隊にことごとくやられた。
 彼の戦車は、片方の履帯に命中弾を受けて立ち往生したが、すぐに脱出。
 中隊まで血路を開いたのだ。
 後に彼の戦車は、中隊の別のティーガーに牽引されて回収されることになる。

 歴史的戦車戦「ヴィレル・ボカージュの戦い」は、こうして幕を閉じた。
 この戦闘が終わってしばらく後、ヴィットマンの胸には、剣付柏葉騎士十字章が輝いていた。

 写真はミヒャエル・ヴィットマンSS大尉。ハンサムだよね。
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by ex_kazaguruma | 2003-10-19 10:00 | ミリタリー | Comments(0)

そして虎戦車は生まれた

 リメイク戦車ネタですが…(汗)
 子供の頃、模型戦車を作って遊んだ世代の人間(30代後半から40代半ば?)に、好きな戦車は何かと問うと、「ドイツのティーガー(タイガー)I型だな。」と答える人がけっこういると思います。
 私もこの戦車はとても好きで、プラモデルを何台も作ったことがあります。

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┗《T34ショック》

 当時、電撃戦を展開し、ヨーロッパを蹂躙していたドイツ陸軍でしたが、ソ連侵攻によって自身の持つ戦車がすでに時代遅れであることを思い知らされるのでした。
 後に「ソ連がドイツに勝ったのは、この戦車を持ち合わせたからだ」とまでいわれた名戦車T34と出会ってしまったからです。
 T34に初めて遭遇したときのショックを、かの戦車エースであるオットー・カリウス氏は自著の中で以下のように述懐しています。(この頃、彼はまだティーガーに乗っていない)

 『もうひとつの事件が私たちに強烈なショックを与えた。ソ連軍がT34を初めて出動させたのだ!(中略)このT34は厚い装甲と理想的な形態を持ち、素晴らしい長砲身の七六・二ミリ砲はあらゆる敵対者に恐怖を与えた。(中略)あの怪物どもが大量に私たちに向かってきたらどう対処したらよいのか?』

 当時、このT34を正面から撃破できる効果的な兵器はたった一つでした。
 それは、本来高射砲として使用していた88mm-FLAK36という大砲の水平射撃によるものだったのです。

┏┓
┗《そして鋼鉄の虎は生まれた》

 ティーガーは、直接T34に触発されて設計された戦車ではありませんでしたが、ドイツ軍が直面するこの「T34問題」に対する回答のひとつではありました。
 分厚い装甲板と、88mm-FLAK36を戦車砲用に改造した88mm-KWK36-L56を搭載したティーガーは、当時まぎれもなく世界最強の重戦車だったのです。
 エンジンはマイバッハ製V型12気筒650馬力(後に700馬力)のガソリンエンジンで、変速機は前進8段、後進4段のセミオートマチック(!)機構を搭載していました。
 ハンドルは自動車と同様の丸型で、何とパワーアシスト機構(いわゆるパワステ)も組み込まれていたのです。
 ティーガーには、当時のハイテクの限りが注ぎ込まれていました。
 その代償として車両価格は高騰し、車体重量も当時の主力戦車の倍以上もある、57tになっていました。

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┗《虎の伝説は加速する》

 ティーガーの初陣は、初期故障などのために完全に失敗に終わりましたが、この鋼鉄の虎は徐々に頭角を現していきます。
 ティーガーは重く、神経質で、調整が難しく扱いにくい兵器でしたが、ひとたび力を発揮すれば、たった2~3両で敵の戦車大隊(15~20両)の進撃を食い止め、葬り去ることすらできる数少ない兵器のひとつでした。
 ただ、整備をするのに特別の装備が必要だったこともあって、常に独立した重戦車大隊にて運用されていました。
 ティーガー装備の重戦車大隊は戦線の火消し役として、常に激戦区の真っ只中に投入されていったのです。

 それゆえティーガーは、味方の兵士からは救世主のように崇(あが)められた反面、敵の兵士からは疫病神のように疎(うと)まれたといいます。
 ミヒャエル・ヴィットマン、オットー・カリウスをはじめとした幾人かの「エース」と呼ばれる戦車長たちによって、鬼神の如く暴れまわる鋼鉄の虎たち。

  『“ティーガー”だけが、動揺した我が軍の戦線を落ち着かせることのできる心理的な支えをもたらすことができた。』と、ティーガーには心理的な存在価値すらあったことに、オットー・カリウス氏は言及しています。
 連合軍の中には、ティーガーを見ただけで戦意喪失した部隊もいたといいます。
 こうしてティーガーの強さは、伝説的に広がっていったのでした。

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┗《おまけ》

 ティーガーの履帯(キャタピラ)は、片方92コマ。
 何と、一コマ30kgもあったんですよ。ということは片方で約2.7t(!)
 戦車ってとっても重いものだったんですよね。

┏┓
┗《写真》

 履帯損傷した僚車を牽引するティーガーI後期型。牽引されている231号車は、ミヒャエル・ヴィットマンの愛車だろうか。
 車体前面、○内に「楯」のマークが見えるだろうか?
 武装親衛隊(SS)の第1師団のものであることがわかる。

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by ex_kazaguruma | 2003-10-17 10:00 | ミリタリー | Comments(0)

戦闘車両分類学

 私のブログの中に、第二次大戦の頃の車両の種類に関する言葉がたくさん出てくるので、ここで整理の意味をかねて、当時の戦闘車両を簡単に分類をしてみたいと思います。

 ◆戦車(せんしゃ)
 360度回転する砲塔(主砲の操作室)を持ち、装軌(キャタピラ)駆動で、対戦車用の砲(戦車砲)とそれを撥ね返すだけの堅牢な外板(装甲板)に覆われた車両です。
 対戦車戦闘に主眼が置かれて開発されており、拠点奪取等の作戦成功のカギを握る車両でもあります。

 ◆自走砲(じそうほう)
 砲塔を取り去った戦車の車台に、一回り大きな大砲を取り付けた車両です。砲車ともいいます。
 大砲の操作室(戦闘室といいます)がオープンのものと、戦車のように装甲板に覆われてクローズされたものがあります。
 ドイツでは、クローズタイプのものを、特に「突撃砲」と呼んでいました。
 オープンタイプのものは防御力がないため、主に後方支援に使われるのが普通でした。

 ◆突撃砲(とつげきほう)
 この呼び名はドイツだけのものです。
 (“Strumgeschuetz【シュツルムゲシュッツ】”と呼ばれていました)
 本来は、歩兵の支援のために開発された砲車の一種です。
 戦車と同様に、堅牢な装甲板に覆われていますが、回転する砲塔がありません。
 そのため、戦車よりも大量生産が可能でした。
 戦争後半では戦車不足を補うために、対戦車戦闘にもたくさん駆り出されました。

 ◆駆逐戦車(くちくせんしゃ)
 「対戦車戦闘に特化した自走砲」ということになるでしょうか。クローズタイプの自走砲(突撃砲)との区別が難しいですが、基本的により重装甲・重武装です。
 ヤークト・ティーガー、ヤークト・パンターなどは、これに分類されます。
 戦闘の最前線で、押し寄せる敵戦車をなぎ倒すために使われました。

 ◆ハーフトラック
 半装軌車両ともいいます。トラックの前輪を持っていますが、後輪の代わりに装軌(キャタピラ)が取り付けられたものです。
 あらゆる物資や兵員の輸送、対戦車砲や輸送コンテナの牽引などを行いました。
 特にドイツではたくさんのハーフトラックが作られています。
 中には軽装甲を施し、機銃弾くらいは撥ね返せる兵員輸送車や砲車も作られました。

 ◆装甲車
 装輪(つまりタイヤ)駆動で、装甲が施してあり、大砲が装備されている車両です。
 戦車より防御性能ははるかに劣りましたが、機動性が非常に高く偵察などにも頻繁に用いられました。
 当時の戦車の最高速度は速いものでもせいぜい50km/hほど。しかも、この速度で連続運転は不可能でした。
 それに比べて装輪装甲車は、70~80km/hを安定して出すことができました。

 他にも支援部隊の車両にはいろいろなものがあります。
 動けなくなった(擱座(かくざ)したといいます)車両を救出・牽引する車両や、食事を作る野営キッチン(ようは屋台ですね)のような車両までありました。
 こういう車両は現存するものはもちろん、写真も少ないので、文献でしかわかりませんが、興味はつきないですね。
 (写真は3号突撃砲G型。低姿勢な車体は発見される確率が低かった)
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by ex_kazaguruma | 2003-10-16 10:00 | ミリタリー | Comments(0)

鬼戦車T34

 ドイツ戦車を中心に紹介・解説してきたので、その好敵手を紹介しないわけにはいけませんね。
 T34は旧ソ連の主力となる戦車で、非常に優秀な性能を持っていました。
 一説に、ソ連がドイツ軍に勝利したのは、この戦車を持っていたからだとまでいわれた名戦車なのです。
 T34は1939年12月に正式採用され、1941年2月に火力・装甲を強化した1941年型が登場しています。

 T34は当時、時代を先取りした戦車でした。
 傾斜した装甲板(当たった弾をはじき易く見かけの厚さも出る)と強力な主砲、丸い砲塔と秀逸な足回り、さらには当時唯一であったであろうディーゼルエンジンなど、先進の戦車理論が凝縮されていました。
 兵器としてのT34が優れていたのは、それだけではありません。
 メンテナンスの簡便さ、操縦の簡単さ、生産の容易さなど、兵器として運用する上で非常に好都合の機械だったのです。
 (一説にT34は全タイプを総計すると、計60,000両以上も作られたといわれている)
 T34はその後も少しずつ改良され、最終的には主砲を85mm砲としたT34/85となります。
 この稀代の名戦車は非常に長命で、戦後も長い間共産圏で就役しました。
 もしかすると東欧の小国や西南アジアの国では、未だに就役している現役組がいるかもしれません。
 ちなみに、1991年から始まったユーゴスラビア内戦では使用されていました。

 T34が正式採用された少し後、1941年6月22日未明、ついにヒトラーはバルバロッサ作戦(ソ連侵攻作戦)を発動。
 ドイツ軍はソ連への侵攻を開始しますが、同年10月、ドイツ軍はこの恐ろしい怪物とあいまみえることになるのでした。
 俗にいう「T34ショック」です。
 これを機会に、ドイツの戦車は飛躍的な進歩を遂げることになるのです。

(写真はドイツ軍に鹵獲(ろかく)された初期型のT34。旧ソ連の赤い星ではなく、ナチスのハーケンクロイツ(逆卍)が描かれている)
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by ex_kazaguruma | 2003-10-12 10:00 | ミリタリー | Comments(0)

フォイヤー!フライ!

 戦車が敵戦車を攻撃(つまり発砲)するには、ある決まった手順がありました。
 仮にドイツ軍の戦車長が敵戦車を見つけると、戦車内ではこんなふうに攻撃準備が開始されます。

 まず戦車長は相手戦車の見かけの大きさから、おおよその距離を目測で瞬時に判断し、クルーに伝えます。
 例えば、「11時にT34、距離800!」とかいうふうですね。
 すると、装填手は「T34」(旧ソ連の戦車ですね)と聞いたので、当然対戦車用の砲弾をチョイスして砲に込めねばなりません。
 同時に砲手は砲塔を11時の方向に回し、照準器を覗きます。
 照準器には距離の見当を付ける目盛りが刻んであるので、それを目安に相手との距離を再計算し、照準を修正します。
 その間に砲弾の装填は完了し、装填手は「装填ヨシ!」と砲手に伝えます。
 その直後、戦車長は砲手に対して「フォイヤー!フライ!(撃て!)」と伝えます。
 これで、砲撃戦開始です。
 砲手は発射ボタンに指をかけ(戦車によってはペダルのもあった)、クルー全員に「アハトゥンク!(注意せよ!)」と呼びかけ、発射します。(不意に発射すると、衝撃でクルーが舌を噛んでしまう場合などがあるため)

 砲手のレベルにもよりましたが、1,000mの距離なら着弾点を修正しつつ、2~3発で命中したようです。
 戦場によっても異なりますが、当時はよっぽど彼我の性能差がない限り、1,500mを越えて撃ち合うことはまれだったようです。(強力な主砲を持っている戦車は、2,000m程度から撃ち合ったようですが)

 前に紹介したホルニッセ(ナースホルン)や、ヤークトティーガーの主砲は強力無比で、腕の立つ砲手が操作した場合、連合軍(米英)の戦車なら、2,000m超の距離から破壊することができたそうです。
 中には、前から当たった砲弾が、後ろ側に貫通した例や、2両並んでいるところに側面から命中した砲弾が、2両もろとも串刺しにした例などもあったようです。
 それにしても、やられたほうも、2kmも先から狙撃されるとは考えもしなかったでしょうね。
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by ex_kazaguruma | 2003-10-08 10:00 | ミリタリー | Comments(0)

戦車クルーは大変

 第二次大戦時のドイツ戦車兵は、非常に高度に訓練されていました。
 どんな役割の人が乗っていたのか、ちょっと紹介しましょうか。

 まず、装填(そうてん)手。
 戦車長の指示に対し、最も適切な砲弾をチョイスして、大砲に詰める人です。
 体力が必要なので、一般的には若い下っ端(?)が受け持ちます。
 次に、通信手。
 通信機の操作を引き受けます。また、簡単な電気系統のメンテナンスもしていたでしょう。
 戦車によってはこの人の座席の前に機関銃が据え付けてあったので、その操作もしました。
 そして砲手。
 大砲の照準・発射を行う人です。砲塔の回転操作もこの人の役割でした。(回すのは一般に電動もしくはエンジン動力)
 非常に沈着・冷静さが要求され、戦車の生死を分けるキーパーソンの一人です。
 さらに操縦手。
 一般的には、砲手かこの操縦手が戦車長の副官です。
 戦車を動かすという特殊な操縦技術が要求されるのと、いちばん前方の様子が見える人なので、肝っ玉が据わっていないと勤まらない役目でした。
 最後に戦車長。
 この戦車の責任者です。戦車はすべてこの人の判断で動きます。
 不屈の精神力と高い洞察力が必要な、過酷な役目でした。
 攻撃に出るか、防御に転じるか、またその結果生きるか死ぬかは、すべてこの人の判断にかかっていました。

 一般的には、いちばん高いところから外の見える戦車長が、敵の第一発見者になります。
 戦車戦では「先に相手を見つけたほうが有利」なので、いかに早く敵を発見するかがクルー全体の生き残りのカギとなります。
 ただ、戦車の砲塔上部にある司令塔(戦車長用の出入り口があるところをこう呼びます)から頭を出して敵を探す戦車長も多かったため、ライフルで頭を狙撃されるケースも多かったようです。
 戦車長の任務は、かくも過酷なものだったんですね。
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by ex_kazaguruma | 2003-10-07 10:00 | ミリタリー | Comments(0)

ケッテンクラート

 軍用車両マニアの間では、戦闘車両でも大型車両でもないのに、高い人気を誇っている車両があります。
 その名を「ケッテンクラート」といいます。
 実はこの車両、何台か日本にも輸入されているようです。
 もちろんナンバーを取得することもできます。
 60年も前に作られた軍用車両で、個人輸入ができるなんて、いったいどんなのでしょうね。

 ケッテンクラートの外観は、一種異様です。
 オートバイの前輪と、装軌(キャタピラ)式の後輪。
 ケッテンクラートは、当初空挺部隊で使用する兵員輸送・牽引目的の車両だったようです。(軽量なので航空機で運ぶことができたのでしょう)
 でもこれ、いったいどういう仕組みで動くんでしょうか?

 ケッテンクラートは1500ccのエンジンを持ち、出力は36馬力。牽引力は450Kgだったそうです。運転手はオートバイ感覚で操作するだけで、この車両を最高速度70Km程度で走らせることができます。
 また、この車両の操舵装置はとても複雑でした。
 一般に装軌車両は、左右の履帯(キャタピラ)の回転速度を変えることによって行います。この車両も例外ではありません。
 オートバイ型の前輪を動かすと、それに連動した変速装置に操舵量が伝えられ、左右の履帯の速度(つまり変速ギア)を変えるのです。つまり、操舵量が小さい場合は左右の履帯の速度差は小さく、操舵量が大きい場合は速度差が大きくなる仕組みです。
 高速走行中は、通常のバイクのように、ハンドルの操舵だけで曲がれたのでしょう。
 極端に言えば、前輪はオートバイ型でなくてもよかったんですが、当時ドイツにはオートバイに乗れる技術をもった兵士がたくさんいたそうなので、あえてそんな形にしたのかもしれません。

 戦時中は敵国どうしの車両(特にトラックなどの輸送車両)でも、優秀なものはすぐコピーが出回るんですが、この車両だけは類似のコピー品が作られませんでした。
 それほどに複雑な機構を持つことと、仮に作ったとしても優秀な整備工兵部隊がないと、維持・運用できなかったのでしょう。
 本来、空挺部隊用に開発されたケッテンクラートでしたが、ぬかるみの多い東部戦線ではオートバイに代わって重宝されたといいます。
 この車両、戦後もフランスなどでは、農耕作業用として広く使われていたようです。
 スノーモービルなどは、こんな車両を起源に持つのかもしれませんね。
 なお、この車両の動いている様子は、映画「プライベート・ライアン」で見ることができます。
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by ex_kazaguruma | 2003-10-05 10:00 | ミリタリー | Comments(0)

電撃戦

 膠着(こうちゃく)した塹壕戦を打破すべく開発された戦車ではあったけれども、戦いの主役はやはり歩兵。
 陸戦は常に歩兵を軸に立案され、編成され、実施されていた。
 事実、戦車が必要になるのは、抜き差しならない塹壕戦になったときだけなので、戦いの最初から最後まで、ずっと必要というわけではなかった。
 戦車自体の生産数も限られており、古い考え方を持つ将校が指揮する部隊では、疎ましがられる場合も少なくなかったようだ。

 何しろ、エンジンの性能も現在とはかけ離れており、自走してもせいぜい5~6kmの速度しか出ない「カタツムリ」(笑)。
 機動力がゼロに等しいその「怪物」を、前線まで運ぶことは並大抵ではなく、特別な支援部隊を編成する必要もあっただろう。
 またその重量ゆえの故障も多く、整備や燃料などの問題も無視できなかった。
 確かに、出るときに出れば強力な助っ人になるのは分かっていたが、長らく歩兵と馬だけで戦ってきた当時の軍隊には、「新参のお荷物」と揶揄されたこともあっただろう。
 さらに、堅牢に守られた戦車の中で戦う「戦車乗り(戦車兵)」は、歩兵に比べれば一段低く見られていたかもしれない。

 ところが多くの戦車が生産され、前線に送られるようになると、この怪物はめきめきと頭角を現すようになった。
 第1次世界大戦で、歩兵戦の限界を打破する目的で生まれた戦車であったが、戦車本来の使い道は、もう少し後になってから、奇しくも戦車に「やられた国」によって完成されるのだ。

 戦車のまったく新しい運用方法は、第1次世界大戦の敗戦国ドイツの戦車部隊創始者、ハインツ・グデーリアンによって生み出された。
 この天才将校は、戦車の黎明期より独学でこのまったく新しい兵器の運用について考えを巡らせていた。
 彼は、この戦車を独立の部隊として運用することを提案したのだ。
 当時、彼の考え方を理解する将校などいるはずもなかったが、ヒトラーが彼の後ろ盾になったことにより、世界初の「機甲師団」がドイツに生まれることになる。

 グデーリアンは、戦車同士が無線連絡しながら、高速で敵陣を突破する方法を提唱していたのだ。
 人呼んで“Blitzkrieg”(ブリッツクリーク)。電撃戦と訳せるだろうか。
 彼はこの方法を独自に生み出し、自分の部隊にそれを理解・修練させ、ポーランド侵攻によってそれを実行。
 自ら生み出した戦術の確かさを、自ら指揮した実戦で立証するという離れ業をやってのけたのだ。
 今まで戦車は歩兵の「助け舟」のような存在だった。
 しかし、電撃戦によって戦術はまるっきり変わってしまった。
 この戦術は、敵陣を高速に突破した戦車部隊の後から、歩兵師団が敵の残党を掃討し、その場所を占領・運営していくというものだったから、戦車の速度に歩兵も追従しなければならなくなった。
 歩兵にも機械化が進められ、兵員輸送車など戦車以外の車両も進化を遂げていったのだ。

 それでは戦車師団と歩兵師団の関係は、悪いものだったのだろうか?
 少なくとも、当時のドイツではそれは大きな問題ではなかったと思われる。
 なぜなら、電撃戦は、複数台の戦車と歩兵が協力し合って戦わないと、成功はおぼつかない。
 戦車が歩兵を、歩兵が戦車を、お互いに補い合って戦わなければならないので、いがみ合っていることは、自らの「死」を意味するからだ。
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by ex_kazaguruma | 2003-09-08 10:00 | ミリタリー | Comments(0)